. . . . .
muji . yosukeyamashita
photo by M.HASUI
.
. . . .
. ご 挨 拶

 このご時世、とうとう私もホームページというものを持つことになりました。
 パソコン通信やメールは結構長い間やっており、人のホームページに投稿するなどもして、なんとなく様子は分かっているつもりですが、初体験にはちがいありません。なにとぞよろしくお願いします。
 スタッフ一同張り切っていて、他にはない面白い企画が山積みになるはずです。どうかご期待ください。
 私自身も身辺雑記から問題提起まで、思いつくことはダイアリー・コーナーでばりばり書きまくりますので、ご贔屓に。
 では、まずは手土産がわりに、最近身辺に起こった受賞騒動のレポートをお届けします。

山下洋輔

. .
. . . . .
muji . 1999.04.30 .
. . .












dia-eiga
毎日映画コンクール
音楽賞賞状


















dia-aca
日本アカデミー賞
優秀賞賞状























dia-geij
芸術選奨文部大臣賞
賞状









dia-trof
日本アカデミー賞
トロフィー
















































dia-yup
芸術選奨授賞式会場にて
.
. 受賞騒動記

 1999年3月25日に、一連の受賞騒動が一段落した。
「毎日映画コンクール・音楽賞」「日本アカデミー賞・優秀音楽賞」「芸術選奨文部大臣賞」を順に受賞するという、異様な体験だった。滅多にないことなので、この機会に、受賞騒動の経過などをご報告をさせていただく。

 すべては、映画「カンゾー先生」の音楽をやったことが始まりだ。やはり今村昌平監督は特別な存在であって、その活動に参加する者はすべて注目されることになる。「カンゾー先生」は、色々な新聞社の主催する映画賞で、監督賞、作品賞などの部門がほとんどノミネートされた。今村監督をはじめ、主演男優の柄本明さん、助演女優の麻生久美子さんは何度も受賞した。
 同じ映画をやった人が次々に賞をとる。あれ、するってえと、音楽はどうなっているんだ、という疑問が自然に生じてきた。しかし、それを人に聞くのは何となくはばかられた。物欲しげと思われるのは嫌ですもんね。しかし、昨年中に決まった報知新聞の賞の受賞式に、プレゼンテーターとなって麻生久美子さんに花を渡したりしながら、そのことは頭を離れなかった。その表彰式では「音楽賞」を受賞する人はいなかったから、そうか、日本の映画賞には音楽賞はないのか、などとも思っていたのだった。
 ところが、音楽賞を設けているものがあった。その内の1つ、毎日新聞社から今年に入ってすぐに事務所に連絡があった。同紙主催の「映画コンクール」で「音楽賞」を受賞したと知らされたのだ。
 「お、やった」というのが第一感だった。手ごたえはあったし、内容に確信犯的自信はあった。何より、今村監督が方々で音楽のことに触れた談話をしてくれていたのは嬉しかった。ただ「賞」という形でそれが証明されるのはまた別の喜びがある。チームに参加し、長く、時には苦しい時間の末に作りあげたものが、大きな総合的な表現の中で役割を果たした、という達成感を覚えた。
 発表は毎日新聞紙上で1月中旬に行われるので、それまでは他言無用ということだった。
 この「発表までは他言無用」というオキテは、そのあとの2つの賞にもついて回り、その期間、秘密を抱えるスパイのような奇妙な心境を味わうことになる。
 つまり、
1. 本人に内定の通知
2. メディアに発表
3. 授賞式
 という3つの時点が順にあって、それぞれ口をつぐむ時期、言ってよい時期があり、それが3つの賞で同時進行したから、結構、脳内錯綜現象が勃発した。

 1月には、六本木の「スイートベイジル139」に、毎月曜日に3回出演することになっていたが、まずそのあいだ中「そうなったけど、言ってはいけない状態」が続いた。
 最初に演奏した11日には、毎日新聞の賞は決まっていたが発表はまだの時期だった。だから「カンゾー先生」のテーマをやる時に「色々な賞を俳優さんがとっていて、めでたいが、音楽はどうなっているのでしょうか」などと、からむふりをしてアイマイなことを言うのが精一杯だった。あれで「何かあるな」と気づいた人がいたらエラい。
 次の出演日の18日までには毎日新聞紙上への発表があったので、楽屋で仲間と祝い、客席にも知らせることができた。でもあれ、毎日新聞をとっている人で、しかも、よく受賞者の表を見る人以外は気づかない。見出しになるのは、今年の場合、ほとんど北野武監督だったからだ。
 そうこうするうちに今度は「日本アカデミー賞」にノミネートされたという知らせが入った。ノミネートされた段階で、5人の「優秀賞受賞者」に決定したという。ただし、授賞式の当日出席しているのが条件ということだった。その中から当日、1人が「最優秀賞」に選ばれるという段取りになる。これがテレビで中継されるあの場面になるわけだ。
 これのノミネートの発表は1月中だったが、最後の出演日の25日にはまだ公にはできなかった記憶がある。というのは、その日に、女優の高岡早紀が、ご夫君の保坂さん、息子の虎太郎君、それにサキママともども、プライベートタイムで来てくれたのだが、終演後話した時に、ノミネートのことを言いそびれているからだ。何しろ早紀ちゃんは、何年か前に、日本アカデミー賞をはじめ、ほとんどの映画賞を独占した女優だから、「後輩の末席に入れさせてもらったよ」とファミリー感覚で事前に知らせてもよかったのだが、どこか気後れした。受賞やノミネートの発表があっても、音楽の話題はほとんど大きく扱われないことも、この頃には分かっていた。映画賞の話題は、監督、主演男優、女優あたりで盛り上がり、音楽にまでは及んでこない。
 授賞式の最初は、2月8日の毎日新聞のもので、東京プリンスホテルであった。
 皆と一緒に壇上に座り、順に呼ばれては、トロフィー、賞状をもらう。
 全員そろっての記念撮影もあった。トロフィーは大きく重い金色の像で、これは持ちでがあった。ただし受賞のスピーチは、監督賞、主演男優賞、女優賞、などにかぎられ、音楽係にはない。日本映画の賞では、撮影、録音、美術、などと並んで、音楽は「裏方技術集団」に含まれ、スピーチなどする身分ではないことも分かった。
 盛大なパーティが行われ、そこで会った知り合いの映画関係者から、「アカデミー賞も大丈夫です」などと言われ、一瞬その気になったりした。賞としてはこの毎日のものはカンヌについで長い伝統があり、マジに重みがあるということだった。
 そういう会話があったのだから、このときには「日本アカデミー賞」のノミネートは公になっていた。「芸術選奨」は、そのことを隠していた記憶がないので、その知らせはまだだった時期だ。この直後にそのことが知らされる。

 事務所に電話があり「差し上げたいが、受け取ってくれるか?」
と打診があった。芸術選奨・大衆芸能部門・文部大臣賞というものだそうだ。
 ジャズ界からはもうすでに、ジョージ川口、松本英彦、渡辺貞夫、それに富樫雅彦という先輩たちが、受賞していることは知っていたが、これには少しびっくりして、ムラマツ・G・マネジャーと、
「どうしましょう」
「おれが国から賞をもらっていいのかなあ」
 などという会話が行われた。
 一応、逡巡というものもあったのだ。しかし、ま、結局、くれるものはもらってしまえということになるんですね。バンドマンなんてものは。
 これの「他言無用」期間が新聞発表の3月18日まで続いたから、これがいちばん長いスパイ心理期間だった。もっとも明日発表という前日には親戚に知らせた。
 2年前に同じ賞を受賞している林英哲さんと話したが、この「他言無用」問題、実際に取り消された人がいたということだ。嬉しさのあまり、内定中に喋りまくった日本舞踊関係の方だったという。確かに、妙な心理になるものだ、国の賞というものは。

 これのスパイ心理期間に「日本アカデミー賞」の受賞式と最優秀賞の発表があった。このへん錯綜しまくって、何を喋ってよくて何を喋ってはいけないのか、一体自分は今なんの賞をもらいにきているのか、などとわけが分からなくなったりする。
 日本アカデミー賞での「裏方技術集団」の最優秀賞は、第一部の食事中に決まる。「カンゾー先生」は、最多の12部門にエントリーされていて、同じ丸いテーブルに優秀賞受賞者が一緒に座っている。それが、次々に呼び上げられるわけだ。舞台上で、5人がアイウエオ順に表彰され、小さなトロフィーと賞状と賞金をもう。それから、並んで立っていると1人の名前が呼ばれて、その人が喜ぶというわけだ。
 美術、脚本、照明、録音、などなど、次々に舞台に上がったが、次々に残念な結果となった。しかし、たとえば録音の紅谷さんなど、もう14回もエントリーされ、そのうち4回も最優秀賞を取っているということで、「こうなると、なかなかくれんのですよ」とおっしやられる余裕だ。「まるで、映画界の王、長嶋ですね」と思わず言ったものだ。
 そのうちに自分の番が来た。他の4人と一緒に表彰を受け、横一列に並び、プレゼンテーターの前回受賞の大貫妙子嬢の声を待った。それは「久石譲」という名前を告げ、ぼくの受賞はならなかった。
 思いもしなかったことだが、ああしてわざわざ並べられて落とされるというのは、非常に悔しいものだ。テーブルにもどって、「さあ、これでゆっくり酒が飲める」などと強がりを言ったが、内心は約1時間ほど腹を立てていた。
 しかし、やがて同じテーブルから、麻生久美子嬢が、さらに柄本明氏が名前を呼ばれて立ち上がる頃には、すっかり忘れ、大きな声で祝福をしながら拍手を送った。最初から、各テーブルごとの対抗戦の様相を帯びているわけだが、この頃にはその雰囲気が白熱してきている。
 ちなみに、これらの主要部門の賞は食事後の第二部に行われる。舞台上で一度表彰を受けた5人の人たちはいったん席に戻り、そこで緊張の面持ちで1人の名前が呼ばれるのを待つという演出だ。食後なので、テーブルには水差しとコップしかなく、これはその場の華やかな雰囲気に比べて、どう見てもミスボらしい。北野監督が舞台でのインタビューで毒づいていた所以だ。その北野氏も、今村監督も、監督賞を逸した。前回チャンピオンの今村監督が受賞者の名前を呼ぶ役だったが、あれ、封筒の中に自分の名前を見い出す可能性もあったわけだ。
 その時に、北野氏も文部大臣賞の受賞を知っていたわけで、その心中はどうだったのか。ぼくの場合、「あれがもらえるんだから、今日の所はいいや」と思ったかというと、前にも書いたが、そうではない。なんだか余計クヤシイのだ。「あっちがもらえているのに、なんでこっちが駄目なんだよう」というようなことで、実にもうその欲というものはイヤラしい。とくにこっちは、いきなり今年だけ映画に乱入してきた部外者の癖にしてから、実に図々しい。図々しいったらありゃあしないの口だ。

 さて、そんなわけで、1週間後には文化庁からの発表となった。はじめて、最初からメディアに名前が出た受賞発表だった。事務所や自宅に次々に祝電や花がとどけられた。これは、嬉しいものだ。
 実はこの発表前に記者会見があった。その日になるまでは出さないという約束のものだ。レコード会社の一室でやったら、活字メディアが10社来てくれた。

 申し述べたことは、
●山下達郎と間違えているかもしれないから、間違いだと言われる前にいただいてしまう。
●「大衆芸能部門」というジャンルの最初の受賞者は、三遊亭圓生さんというのは、実に光栄。
●しかしよく考えると、敬愛する落語の師匠たちと、ジャズマンが同じ賞を争うのは、申し訳ない。ジャズはもちろん「大衆芸能」だから、いまさら「音楽」部門に入れろというのは色々大変だろうから、「大衆芸能」の中の音楽賞として新しい分野を考えていただけないか。
●ジャズを大学で教える経験から、この音楽の素晴らしさを再発見した。
 などなどだ。

 あと、言えばよかったとムラマツ・G・マネジャーと話したのは、「これで、『お前にはピアノを貸さない』と言われることが、なくなるのではないか」というセコイ話だった。
 賞をもらっていながらイチャモンをつけるということにもなってしまったが、これは3月25日、上野の芸術院会館での授賞式のあと、宴会でスピーチを頼まれた時にも言ってしまったことだ。いやあ、とんでもない奴にやったと国は後悔しているかもしれない。
 その受賞式は順番に文化庁長官から表彰状を手渡される。式後、記念撮影はないから、証拠写真は自分で撮るしかないと林英哲さんから知恵を授けられていたので、宴会の準備の前に正面の授賞式と書いてある看板の前でムラマツ君に写真を撮ってもらった。しかし、同じ情報を得ている人が沢山いて、皆、同じことをするので、結構、押し合いへし合い状態となった。皆、証拠は欲しいんですね。
 そのあと、宴会があり、前に書いたスピーチをしたが、これは北野監督が帰ってしまったので、こちらが色物代表に繰り上がったのかもしれない。北野氏はこの日のことをインタビューされて、「知っている人がいなくて……」という話をしていたが、こちらは、大昔に酒場ですれ違っていて、あるいはタモリの仲間ということで、まったく知らない間柄ではない。とはいえ、控室で会釈を交わしただけで、話をする機会は持たなかった。
 ぼくの直前にやった絵画の長老先生のスピーチが絶品だった。
 「私は絵を描くのは上手いが、話は下手だ!」

 これだけおっしゃって演台から降りてしまった。これには土下座だ。
 宴会ではさまざまな人と会い、話し、あるいは話しかけられ、一緒に写真を撮ったりした。やがて、会場を出て、桜の花が咲く寸前の曇り空の下、上野公園内を歩いた。

 後日、別の用で相倉久人さんと話したときのことを書く。
 相倉さんの話の前提は、「ああいう賞をもらってさぞ困惑しているだろうが、気にするな」というものだった。長い間、「日本レコード大賞」の実行委員長をされている経験から、「賞をやる側」の心理を分析してくださった。その賞の権威を高める為にする授賞というものがあるという。「山下もあんな賞をもらうようになったか」と馬鹿にされると思わずに、あれは「山下に賞をやることによって、あの賞の権威を高めているのだ」と受け取って、安心してもらいなさい、というご趣旨だった。今も昔もありがたい師匠だ。
 かつて筒井康隆さんが、ノーベル賞をもらった大江健三郎さんに、これでどんな無茶苦茶でもできる、それを期待している、という意味のことを言ったという記憶がある。
 ノーベル賞と比較するのはオコガマしいが、ま、賞なんてものは根は同じだ。
 このことを忘れないようにしたい。
 1999年4月30日


. .
. . . . .